2018年3月18日日曜日

エチオピアの宝。そして別れの季節。




この2年、エチオピアに夢中になっていた。まだまだ知りたいことはたくさんあるが、ある程度の満足はしている。
2014年に初めてエチオピアへ行った。当時、エチオピアの特殊性に違和感を覚えた。この世界はいくつもの不正義が平気でまかり通っているのではないかと考えるようになった。

私の好奇心を最も刺激したのは、なぜエチオピアは特別扱いされているのか、そしてなぜ、特別扱いされながらもエチオピアを貶めるような言説が拡がっているのか、という謎である。

今はそれなりに納得のできる結論に達している。
やはりというか、本当にエチオピアは特殊な国であり、特別な国だと分かった。
さらに、エチオピアの研究は私の人生に決定的な変化をもたらした。
今更、変な奴だと思われることに何も抵抗は感じないけれど、私は神の実在を確信したのである。
こればかりはどれほど大きな声で主張しても、人を説得することができないかもしれないけれど、2000年以上行方不明になっている宝の在処を知り、神が実在していることを疑えなくなってしまったのである。

旅人ごときがそんな発見をするはずがないという先入観のためか、
あるいは、神が実在しているなんてそんな馬鹿げたことがあるはずがないという前提で設計された教育を受けてきたためか、
自分の発見は、今の時代には受け入れられないものだと気が付いている。


2014年までの私の旅は、開発は絶対に正しいことであり、困っている人の暮らしを良くするためのものだという前提に立っていた。

エチオピアの村の暮らしに近づき、私の前提は正しくないのではないか、と自己批判的な検討をするようになった。30年生きた中で一番、大きな変化を感じた2年だった。エチオピアとの出会いに感謝しています。

また村の子ども達に会いに行きたい。
ひとまず、エチオピア編はここで区切りとします。

エチオピアが特別な国である理由。旅人ごときの私が発見した宝について、一冊の本として残します。

ワンピースは実在している
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そしてエチオピアの村での出会いを物語形式で表現しました。
Life Story from Ethiopian Village / 3zok




2018年3月、日本を離れ、また新しい出発です。

これからも、いろいろな場所で、いろいろな物語を表現していきたいと思います。

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2018年1月29日月曜日

エチオピアのミステリー5 巨人は実在したのか



<エチオピアのミステリー>





巨人の骨は世界各地で見つかっていると言われています。




巨人が実在していれば、世界各地の巨大建造物の謎のいくつかは説明できるのではないかと思います。
エチオピアにも、当時の人間の技術では考えにくい建造物があります。



1世紀から4世紀ごろに栄えたアクスムに建っているオベリスク群。
一枚岩から造られたものとしては世界最大。倒壊しているものもありますが、最大のものは33メートル、重さ520トンだそうです。

建設機械もない時代に?

人間には絶対に不可能とは言い切れませんが、
巨人がいたらヒョイっと建ててしまいそうです。

巨人は実在したのか。
捏造説もありますが、ずいぶん前から言われているにも関わらず、なかなか正面から検証しようという動きがないように思います。

巨人が実在した証拠は隠されている、と言われています。

もしこれまでに発見されたと言われている巨人の骨は全部捏造で、隠されたわけでもなんでもないとします。

これから先、巨人の骨が見つかったらどうするか?

やっぱり隠すと思います。


隠さなければならない理由としてよく言われているのは、

「歴史が変わってしまうから」

「教科書を書き換えなければならないから」

歴史が変わってしまうことなんて問題ではないのです。
固定された歴史に守られているのは、権力や権威にすがりついている人だけです。

「弱者が頼りきっている信仰を揺るがしてしまうことが可哀想」という連想をさせるような表現をしていますが、人間はそんなに弱くないです。

特に信仰心の篤い人は人間が発明した理屈よりも、真実に関心があるはずです。
間違った歴史を信じて、過ちを犯してきたとしても、嘘の上で生かされていることの方がよほど残酷だと思います。

過去の議論に費やした労力が無駄になるから?

真実よりも損得を優先させる人間は、立派な理屈を語っていても、もはや正義ではない。
この時代の恐ろしいところは、権力者が自分を擁護しなくても、教育やメディアを使って「常識」を植えつけておいた庶民が、勝手に権力者を擁護してくれるところです。

まぁ、でも、巨人がいた証拠を突きつけることもできないし、下級市民の妄想です。

ただ、「歴史が変わる」という抽象的な表現が本質を分かりにくくしていますが、最大の理由は『エノク書』です。




『エノク書』以外の聖書(『創世記』や『民数記』)の中にも巨人(ネフィリム)は登場していますが、巨人について詳しく書かれているのは、『エノク書』と『ヨベル書』なのです。

『エノク書』も『ヨベル書』も、エチオピア正教の聖典ですが、カトリック・プロテスタントからは、偽典とされています。

『エノク書』『ヨベル書』の物語では、禁じられているにもかかわらず、天使たちは地上に降り、人間の女と交わりました。そして生まれたのが巨人です。巨人らは地上の資源を食べつくし、人間も食べました。堕天使たちは人間に知恵や魔術を教え、人間は道を外れていくことになります。神は大洪水によって堕落した世界を滅ぼしました。

そして話は飛びますが、『エノク書』には、世界の終末に関する物語が書かれています。
メシアが現れ、人間選別が行われます。地上の王の正体は堕天使であり、焼き尽くされます。


『創世記』には、人間の女と天使が交わり巨人が生まれたことや、その後に人間が道を外れていったことは書いてありますが、それは天使たちの罪であり悪行であったとは書いていません。

『エノク書』によれば、巨人が生まれたことも、人間が堕落したことも、大洪水の原因も、全ては堕天使の罪によるものなのです。

そして、世界の終末に裁かれる堕天使は、今の地上を支配している王たちということになります。

前回書きましたが、死海写本に『エノク書』が含まれていたことは、イエス・キリストが生きていた時代には、『エノク書』は読まれていた可能性を示しているのです。

巨人の実在に注目が集まれば、人々は再び聖書と向き合い始めるかもしれません。
そこで、巨人の記述がある『エノク書』にも目が向けられます。

ヨーロッパで発展したカトリック・プロテスタントの聖職者たちが、『エノク書』を切り捨てたままの聖書を聖典とし、人間を間違った方向へ導いてきた「堕天使」だと気付かれることを恐れているのです。

彼らは世界史の主役として君臨し、この世界の開拓者であるかのように思われています。

世界のシステムはうまく機能しているように見えますが、様々な問題を起こしています。世界の貧困も紛争も、彼らがつくりあげたシステムの上で起きている問題です。


巨人から『エノク書』、『エノク書』から堕天使。
その想像力は、イエス・キリストの教えを守ってきたエチオピアを照らすのではないかと思っています。

どちらが正統でどちらが異端か、気付くはずです。

「神の存在が変わる」とも言われていますが、これも分かりにくい言い方です。
世界を支配している人たちが主張してきた「神」が偽物だとバレる、ということです。




―笑われていこうぜ、75億分の1の人生―

2017年12月18日月曜日

エチオピアのミステリー4 『エノク書』はなぜ隠されるのか


<エチオピアのミステリー>





4. 『エノク書』はなぜ隠されるのか


『エノク書』はエチオピア正教の聖典の一部である。

「聖典の一部」という表現が分からない人にも分かるように説明していこうと思います。

聖書というのは、一冊の本ではない。複数の書物で構成されている。

『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』・・・この5つの書は「モーセ五書」と呼ばれ、モーセによって書かれた。

このモーセ五書に始まり、複数の歴史書、知恵の書、預言の書などで構成されている。

これらをまとめて聖書と呼ぶ。

聖書はもともと、ユダヤ教の聖典である。

やがて世界の終わりがやってきて、その時に救世主が現れる。そして聖書はその役割を終えることになる。神と人間の間に交わされた契約が果たされるということである。

そしてイエス・キリストが登場する。
もちろん舞台は聖地エルサレム。

イエス・キリストを救世主だと見なし、キリスト教が生まれる。

古い聖書を受け継ぎながらも、新しい契約として「新約聖書」が書かれる。

ユダヤ教はイエス・キリストを救世主と見なしていないので、「新約聖書」は読まない。救世主は、これから先の未来に登場すると考えている。

キリスト教は、ユダヤ教時代の「旧約聖書」とキリスト教に生まれ変わってからの「新約聖書」の両方を聖典としている。

「新約聖書」にもいくつもの「書」がある。宗派によって、受け入れている「書」と受け入れていない「書」に違いがあったり、内容についての解釈が異なったりする。

ざっくりと解説すると、こんなところであろう。


いろいろと違いも見られるユダヤ教、キリスト教と、それぞれの宗派であるが、一番最初に書かれた「モーセ五書」を重視している点は、共通するところだろう。

神とはどのような存在であるのか、自分たちのルーツはどこにあるのか。
「モーセ五書」は、信仰の土台のようなものである。


さて、『エノク書』について話そう。

『エノク書』はユダヤ教においても、キリスト教のカトリック・プロテスタントにおいても、偽典とされている「書」である。偽物の書ということである。

そのため、聖書を入手しても、そこに『エノク書』のことは書かれていない。

なぜ偽書なのか。いろいろ言われてはいるが、今更になって「偽書ではない」と言えない事情がある。我々はキリスト教と言うと、カトリックやプロテスタントを思い浮かべる。あたかもカトリックやプロテスタントが、「正統」であるかのように捉えている。世界の宗教人口を見ても、キリスト教徒が一番多く、その大部分はカトリック・プロテスタントである。

ヨーロッパで発展したカトリックやプロテスタントは、世界史の主役でもあり、良くも悪くも、現在の世界における支配構造と密接に関係している。

そんな影響力の大きなキリスト教が、今更になって、「やっぱり『エノク書』は偽書ではない」とはとても言えない。

『エノク書』を欠いたままの聖書が、戦争や紛争、植民地支配、宗教裁判の根拠として使われ、ときには、殺人、暴力、差別を正当化してきた側面がある。今のキリスト教は、血生臭い歴史の上に存在しているのである。歴史の重みが、そのままのしかかるため、どう考えても、『エノク書』は正しかったと言えないだろう。世の中には、キリスト教の理想のために犠牲を強いられている人もいれば、平安を保っている人もいるのである。

『エノク書』は、聖書に含まれる複数の書物のうちの単なる一冊ではない。

エノクはアダムから数えて7番目の子孫であり、モーセよりもずっと昔の人物である。

つまり、モーセ五書の前に、『エノク書』は存在する。

『エノク書』には、初期世界の話、大洪水の原因、エノクの見た天界と地獄、そして、世界の終末について書かれている。

要するに、『エノク書』を聖典とするか、しないかという話は、聖書の全体像に影響を及ぼすほどのものなのである。

例えるならば、『エノク書』のない聖書というのは、プロローグとエピローグのない物語。スタートとゴールのないレース。目標規定文と結論のない論文。main関数のないプログラム・・・。

少し大げさかもしれないが、モーセ五書の前に位置づけられるというのは、それほど大きな意味を持つ。聖書全体の見え方が違ってくるのである。

ヨーロッパ人が『エノク書』の存在を知ったのは、1773年にジェームス・ブルースがエチオピアに滞在して持ち帰ったのが最初だと言われている。

しかし、その後も『エノク書』が受け入られることはなかった。

イエス・キリストが誕生して2000年。
ヨーロッパで独自に発展したキリスト教は、聖書の全体像を変えてしまうような『エノク書』を認めずに、歴史を動かし、今日に至る。

『エノク書』は正しいと認めるはずもなく、『エノク書』を裏付ける証拠などは、世の中に出てきてもらっては困る。


実際には『エノク書』は偽書ではないと主張する者がいないわけではない。

新約聖書の聖典に含まれている『ユダの手紙』には、『エノク書』から引用されたと思われる記述がある。偽書である『エノク書』に書かれている言葉が引用されている聖典というのはおかしいではないか、と指摘されている。

また、ユダヤ教のタルムードに書かれているメタトロンという天使はエノクとの親和性が認められる。

そして何より、1947年からイスラエルの死海周辺で発見された死海写本には、『エノク書』が含まれているのである。死海写本は、これまでに発見された聖書の写しの中で最古のものである。紀元前2世紀から1世紀ごろに書かれたものだとされている。

この発見が意味していることは、イエス・キリストの生きていた時代には、『エノク書』が読まれていたのではないか、ということである。

死海写本は解読から発表まで、あまりにも時間がかかっていたために、バチカンにとって不都合な真実があり、圧力がかかったのではないかと言われていた。
実際に圧力がかかったかどうかは分からないが、不都合な真実があったとすれば、『エノク書』の存在はその1つだろう。

それまで『エノク書』が偽書である理由の一つとして、「エチオピアの言語で書かれたものしか残っておらず、エチオピアで独自に書かれたものである」と言われてきたが、死海写本の中にアラム語で書かれた『エノク書』が発見されていたのである。

『エノク書』はエチオピア人が勝手に創作したものではないことが証明されたのである。

ただ、死海写本はいったいどのような集団によって残されたのかによって、意味付けが変わってくる。『エノク書』が偽書ではないという根拠にはなっていないのが現状である。

エチオピアのキリスト教(エチオピア正教)は、エチオピアで独自に発達した土着性の強い宗教だ、と言われ、世界からは「異端」のように見られている。
なぜなら、『エノク書』を偽典としているカトリックやプロテスタントが、キリスト教世界の中心にいるからである。

エチオピア正教は、近代的な教育を受けていない「発展途上国」の人間が、勝手に考え出した間違った宗教であるかのように見せられている。

確かに土着の部分はある。女性器の切断儀礼などはその例だろう。

しかし、エチオピア正教から土着の部分を切り離したときに浮かび上がるのは、イエス・キリストが生きた時代の信仰の姿に近い、「原始キリスト教」の姿なのである。

生後八日目の男子の割礼や、ユダヤ教に近い食物規定があることも、エチオピア正教の特徴である。それらは、まさにイエス・キリストが生きていた時代の信仰の姿なのである。

『エノク書』は今後もキリスト教のメインストリームからは偽典として扱われ続けるのだろう。歴史の重みを考えれば、そういう判断もあり得るのかもしれない。

だが、そのためにエチオピアが貶められるのは違うと思っている。

イエス・キリストの教えを忠実に守っているのは、カトリックやプロテスタントか、それともエチオピア正教か。
どちらが「正統」で、どちらが「異端」か。

考える自由は、全ての人に認められているはずである。


次は『エノク書』に書かれている巨人の話をしようと思う。






―笑われていこうぜ、75憶分の1の人生―





<エチオピアのミステリー>





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