4. 『エノク書』はなぜ隠されるのか
『エノク書』はエチオピア正教の聖典の一部である。
「聖典の一部」という表現が分からない人にも分かるように説明していこうと思います。
聖書というのは、一冊の本ではない。複数の書物で構成されている。
『創世記』『出エジプト記』『レビ記』『民数記』『申命記』・・・この5つの書は「モーセ五書」と呼ばれ、モーセによって書かれた。
このモーセ五書に始まり、複数の歴史書、知恵の書、預言の書などで構成されている。
これらをまとめて聖書と呼ぶ。
聖書はもともと、ユダヤ教の聖典である。
やがて世界の終わりがやってきて、その時に救世主が現れる。そして聖書はその役割を終えることになる。神と人間の間に交わされた契約が果たされるということである。
そしてイエス・キリストが登場する。
もちろん舞台は聖地エルサレム。
イエス・キリストを救世主だと見なし、キリスト教が生まれる。
古い聖書を受け継ぎながらも、新しい契約として「新約聖書」が書かれる。
ユダヤ教はイエス・キリストを救世主と見なしていないので、「新約聖書」は読まない。救世主は、これから先の未来に登場すると考えている。
キリスト教は、ユダヤ教時代の「旧約聖書」とキリスト教に生まれ変わってからの「新約聖書」の両方を聖典としている。
「新約聖書」にもいくつもの「書」がある。宗派によって、受け入れている「書」と受け入れていない「書」に違いがあったり、内容についての解釈が異なったりする。
ざっくりと解説すると、こんなところであろう。
いろいろと違いも見られるユダヤ教、キリスト教と、それぞれの宗派であるが、一番最初に書かれた「モーセ五書」を重視している点は、共通するところだろう。
神とはどのような存在であるのか、自分たちのルーツはどこにあるのか。
「モーセ五書」は、信仰の土台のようなものである。
さて、『エノク書』について話そう。
『エノク書』はユダヤ教においても、キリスト教のカトリック・プロテスタントにおいても、偽典とされている「書」である。偽物の書ということである。
そのため、聖書を入手しても、そこに『エノク書』のことは書かれていない。
なぜ偽書なのか。いろいろ言われてはいるが、今更になって「偽書ではない」と言えない事情がある。我々はキリスト教と言うと、カトリックやプロテスタントを思い浮かべる。あたかもカトリックやプロテスタントが、「正統」であるかのように捉えている。世界の宗教人口を見ても、キリスト教徒が一番多く、その大部分はカトリック・プロテスタントである。
ヨーロッパで発展したカトリックやプロテスタントは、世界史の主役でもあり、良くも悪くも、現在の世界における支配構造と密接に関係している。
そんな影響力の大きなキリスト教が、今更になって、「やっぱり『エノク書』は偽書ではない」とはとても言えない。
『エノク書』を欠いたままの聖書が、戦争や紛争、植民地支配、宗教裁判の根拠として使われ、ときには、殺人、暴力、差別を正当化してきた側面がある。今のキリスト教は、血生臭い歴史の上に存在しているのである。歴史の重みが、そのままのしかかるため、どう考えても、『エノク書』は正しかったと言えないだろう。世の中には、キリスト教の理想のために犠牲を強いられている人もいれば、平安を保っている人もいるのである。
『エノク書』は、聖書に含まれる複数の書物のうちの単なる一冊ではない。
エノクはアダムから数えて7番目の子孫であり、モーセよりもずっと昔の人物である。
つまり、モーセ五書の前に、『エノク書』は存在する。
『エノク書』には、初期世界の話、大洪水の原因、エノクの見た天界と地獄、そして、世界の終末について書かれている。
要するに、『エノク書』を聖典とするか、しないかという話は、聖書の全体像に影響を及ぼすほどのものなのである。
例えるならば、『エノク書』のない聖書というのは、プロローグとエピローグのない物語。スタートとゴールのないレース。目標規定文と結論のない論文。main関数のないプログラム・・・。
少し大げさかもしれないが、モーセ五書の前に位置づけられるというのは、それほど大きな意味を持つ。聖書全体の見え方が違ってくるのである。
ヨーロッパ人が『エノク書』の存在を知ったのは、1773年にジェームス・ブルースがエチオピアに滞在して持ち帰ったのが最初だと言われている。
しかし、その後も『エノク書』が受け入られることはなかった。
イエス・キリストが誕生して2000年。
ヨーロッパで独自に発展したキリスト教は、聖書の全体像を変えてしまうような『エノク書』を認めずに、歴史を動かし、今日に至る。
『エノク書』は正しいと認めるはずもなく、『エノク書』を裏付ける証拠などは、世の中に出てきてもらっては困る。
実際には『エノク書』は偽書ではないと主張する者がいないわけではない。
新約聖書の聖典に含まれている『ユダの手紙』には、『エノク書』から引用されたと思われる記述がある。偽書である『エノク書』に書かれている言葉が引用されている聖典というのはおかしいではないか、と指摘されている。
また、ユダヤ教のタルムードに書かれているメタトロンという天使はエノクとの親和性が認められる。
そして何より、1947年からイスラエルの死海周辺で発見された死海写本には、『エノク書』が含まれているのである。死海写本は、これまでに発見された聖書の写しの中で最古のものである。紀元前2世紀から1世紀ごろに書かれたものだとされている。
この発見が意味していることは、イエス・キリストの生きていた時代には、『エノク書』が読まれていたのではないか、ということである。
死海写本は解読から発表まで、あまりにも時間がかかっていたために、バチカンにとって不都合な真実があり、圧力がかかったのではないかと言われていた。
実際に圧力がかかったかどうかは分からないが、不都合な真実があったとすれば、『エノク書』の存在はその1つだろう。
それまで『エノク書』が偽書である理由の一つとして、「エチオピアの言語で書かれたものしか残っておらず、エチオピアで独自に書かれたものである」と言われてきたが、死海写本の中にアラム語で書かれた『エノク書』が発見されていたのである。
『エノク書』はエチオピア人が勝手に創作したものではないことが証明されたのである。
ただ、死海写本はいったいどのような集団によって残されたのかによって、意味付けが変わってくる。『エノク書』が偽書ではないという根拠にはなっていないのが現状である。
エチオピアのキリスト教(エチオピア正教)は、エチオピアで独自に発達した土着性の強い宗教だ、と言われ、世界からは「異端」のように見られている。
なぜなら、『エノク書』を偽典としているカトリックやプロテスタントが、キリスト教世界の中心にいるからである。
エチオピア正教は、近代的な教育を受けていない「発展途上国」の人間が、勝手に考え出した間違った宗教であるかのように見せられている。
確かに土着の部分はある。女性器の切断儀礼などはその例だろう。
しかし、エチオピア正教から土着の部分を切り離したときに浮かび上がるのは、イエス・キリストが生きた時代の信仰の姿に近い、「原始キリスト教」の姿なのである。
生後八日目の男子の割礼や、ユダヤ教に近い食物規定があることも、エチオピア正教の特徴である。それらは、まさにイエス・キリストが生きていた時代の信仰の姿なのである。
『エノク書』は今後もキリスト教のメインストリームからは偽典として扱われ続けるのだろう。歴史の重みを考えれば、そういう判断もあり得るのかもしれない。
だが、そのためにエチオピアが貶められるのは違うと思っている。
イエス・キリストの教えを忠実に守っているのは、カトリックやプロテスタントか、それともエチオピア正教か。
どちらが「正統」で、どちらが「異端」か。
考える自由は、全ての人に認められているはずである。
次は『エノク書』に書かれている巨人の話をしようと思う。
―笑われていこうぜ、75憶分の1の人生―
<エチオピアのミステリー>
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